平山千楊プロフィール

1966年、平山喜堂(夫)と共に気学天祐会を創設。喜堂亡きあと主宰。
気学の根本を追求し、丁寧に、ユーモアを交えて、時代に合った教え方や情に厚い鑑定を追求。
これまで全国1000人以上の生徒が学び、10000人以上の鑑定実績。

なぜ気学を志したのか。

昭和30年、仕事で千葉市から西の大阪に移りました。主人にとって的殺という大凶方、私にとっても凶方でした。大変苦労しましたが若さで頑張り続けました。

昭和36年、この時も呼ばれて故郷の千葉市に帰りましたが、これがまた一白暗剣という大凶方と言う事が後でわかりました。主人も私も真面目人間です。大阪から着いてきてくれた従業員が、だんだんなまけ癖がついてきたり、一方的な親会社からの要求の激しさに、どんなに働いても追いつきません。

4年ほどたって気学を知り、今の状態が自分たちの力では無く、方位の問題だと分かりました。主人はのめり込むように気学の勉強を始め、近くの吉方採りを続け、3つの会社を立ち上げました。

しかし10年目に一白の男性にだまされて、メーンの仕事を失いました。これも大きく動いた凶方の結果です。残った2つの会社は吉方採りのおかげで順調に進み、仕事をしながら気学の鑑定を始める様になりました。

しかし大きく動いた凶方は許してくれません。新社屋を建て始めた時、大きな手形の不渡りをうけ、会社を整理し、先行きに何も宛ての無いまま気学の看板を上げました。

主人にとって一番やりたい仕事につけたのは、やはり吉方採りのお蔭だったと思います。自分たちが苦労したので、苦しんでいる人を少しでも楽にしてあげたいと願いながら、現在に至っております。

平山太基プロフィール

26歳で広告会社を立ち上げ、平成27年に事業承継後、気学天祐会の講師・鑑定士となる。同時に、公益社団法人埼玉デザイン協議会理事として、東京都立産業技術研究センター公認のエンジニアリングアドバイザーとして、マーケティングセミナーの企画・運営も手掛けている。

なぜ気学を志したのか。

私が10代、20代の頃は、父、喜堂がやっている気学に対して半信半疑でした。(どちらかというと反発もしていました)ですから、旅行等は何も気にせず、自分の好きなところへ行っていました。しかし、独立後の事務所設立や引越しの際には、一応父の言うことは聞いていました。

なぜなら、凶方へ行った後、悪いことがあったら何を言われるかわからないと思ったからです。それが大きく変化するのは、30代初めに自分の会社の経営状況が悪化した時です。

その時初めて父に相談し、指導通りに動き、倒産の危機を乗り切ることができたのが、気学を勉強するきっかけです。そして気学の実践が、人々の幸福に大きく寄与できることを実感することにもなりました。その後、業務も順調に拡大し、自宅マンションも購入でき、40代半ばには自分の事務所も建てることができました。

父の死後、母が天祐会を承継しましたが、母が80を迎えたころから、気学天祐会の教えを絶やさないようにと考えていました。そしてようやく平成27年に会社を娘に継承することができ、天祐会に軸足を移す事ができました。

今後は、一般の方への指導・教導はもちろんですが、気学の教えを中心に、自分の会社経営の経験とマーケティングの知識も活かし、中小零細企業の経営者の方たちの駆け込み寺になれればと思っています。